脳梗塞を2回経験したKさんは90歳になります。奥さんを主たる相続人とした遺言書は2年前に弁護士のもとで作成しました。会社も息子に譲り、隠居生活も間近と考えていた昨年の暮れ、一大事件です。
K家の朝は早く、朝食はいつも6時には始まります。ところがその日は6時になっても奥さんの気配がありません。寝室に行ってみると奥さんはベッドに座っていました。そしてKさんに、「私がいなくなってもあなたは若い女(ひと)が世話をしてくれるでしょうから心配ないですよね」と真顔で話すのです。
今までKさんは家事らしきことは全くしたことがありません。トースターも電子レンジも触ったこともないのです。もちろん、洗濯機を動かしたこともなければ、パネルの多数の表示を見ても途方に暮れるばかりです。朝ごはんの用意をとキッチンに立ったまま呆然としているKさんを横目に、奥さんは掃除をしようとしているようですが、掃除機が見つけられずウロウロしています。
周りの誰もがうらやむような生活を享受してきたKさん夫婦、仲の良いことでも評判でしたが、認知症による片方の突然の脱落にあって、その生活は暗転しました。日々の生活にも事欠く事態に陥ったのです。
当たり前の日常の脆さを目の前にして果敢に立ち向かい始めたKさん。今ではトーストも焼けるし、卵焼きもできます。洗濯機も使えるようになりました。
施設に入った奥さんを週2回訪ねます。若い女(ひと)が世話をしていると思い込んでいる奥さん、子供ができた時の事を心配して色々と指図してくれます。深い愛情を感じながらも「僕を何歳だと思ってるんだろうね」と毎回戸惑いを感じつつ少しうれしそうな90歳のKさんです。