クリニック通信Clinic Letter

12月の診療室だより

「おはようございます」と、しわがれ声で診察室のドアを開けて入ってきたMさん。「声出すの1週間ぶりなんです、時々どうやって声を出せるのか、話せるのか、心配になります」。もともと寡黙なMさんのご主人ですが、難聴が重なって朝から晩まで声出しがありません。「おい、とか、うん、とかもないんです。ほとんど動かないから置物みたいなんです。盆栽と思ってちらっと見て通り越します」。
静寂の中、今朝も読書の時間の始まりです。読書は若い頃からの2人の趣味ではありますが、会話がないため、“やむを得ず読書”は一種の苦行に近いものがあります。読書に飽きたら居眠りの時間となります。テレビには以前より無関心だったMさんも、その方針に追従した結果、M家は完全な静寂の世界となり世界から全く取り残された状態となっています。
「先生、私孤独なんです、頭の中ではいつも孤独という字を書いています。2人でいても孤独、寂しいですよ、毎日が。子どもたちがいた頃はこの2階建ての家も狭く感じてたけど、今はアフリカの砂漠に住んでるみたい、不思議ですよね、こんなに静かなのにカラスの鳴き声もスズメのさえずりも、あの甲高いヒヨドリの声も聞こえないんです。いや、鳴いてるのに聞こえていない、五感の鈍麻が起きてるんですね。孤独って外の音が聞こえなくなるってことなんだとこの歳になって分かりました」。
Mさん92歳、ご主人95歳、静まり返った居間に読書の時間が過ぎていきます。「先生、今日で1週間誰とも話していません」。診察室ではこんなに饒舌なMさんの苦痛顔が、話すうちに次第に笑顔に変わっていくようでした。

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